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Constantine(2005) 「聖槍という鍵についての考察」

"I AM CONSTANTINE ! JOHN CONSTANTINE ! ASSHOLE!"
−俺はコンスタンティン!ジョン・コンスタンティンだ!クソッタレ!–

⚠︎本レビューは、多大な脱線、余計な論考が含まれます。

 

先日、Constantine(2005)という映画を見た。悪魔祓いを生業とする捻くれた男が、天界と地獄の覇権争いに巻き込まれ、仲間を失いながらも懸命に戦っていくオカルト・アクション映画である。主演はジョン・ウィックでお馴染みのキアヌ・リーブスであり、若き頃のキアヌの情熱を随所に感じさせられる作品である。

本作は、ヒトラーの死後、その消息が不明であった聖槍(Spear of destiny)が発見され、天界と地獄、現世の均衡が崩れたことで始まる。神の血が染み付いた聖遺物である聖槍が、地獄の悪魔共を現世に引き込む「鍵」として使われるのである。

「鍵」といえば、メシアであるイエス・キリスト(Son of God)が12使徒の1人であるペテロに与えた「王国の鍵」が思い出される。王国とはすなわち天界(Empire of God)のことであり、ペテロは①ユダヤ人とユダヤ教への改宗者、②サマリア人、③異邦人の為にこの鍵を用いたとされる。「鍵」とは神によって与えられた権威である。

本作に登場するガブリエルは、神の権威を孕んだ聖槍を用いることで、魔王の息子であるマモンを現世に再誕させようとした(霊感のある女の胎を媒介したことを考えれば、出産を経て誕生したと言える)。「王国の鍵」は現世から天界への扉を開くものであるのに対し、聖槍という「鍵」は、地獄から現世への扉を開くものであった。こうした違いはあれど、どちらも神の権威を利用し、再誕を行うという点からは、製作陣の故意を感じる。

そして、注目すべきなのは、「王国の鍵」における行使者はペテロだが、実際の決定者は神であるという点である。新約聖書からは、ペテロが「王国の鍵」を使う時、常に神の意向に従う必要があったことが分かる。つまり、「王国の鍵」つまり神の権威とは、神の審判(Judgements)によって用いられるに過ぎないということである。では、本作においてはどうだっただろうか。

本作において、神はジョン・コンスタンティンの横に、常に助手としてハーフブリードを置いていた。コンスタンティンを改心させ、彼が自己犠牲の精神を持つように導くことで、神のお気に入りであるコンスタンティンを是が非でも王国へ連れて行こうとする目的を持っていたことは明白である。

しかし、ここにはもう一つの目的が隠れている。それは、再誕しようとするマモンとその共犯者であるガブリエルを止める為に、魔王であるルシファーの力を利用することだった。そもそも、天使や悪魔は自ら現世にやってくることはできない。そのため、人間との混ざり物であるハーフブリードを送り込んでいるのである。神や天使自らがマモン再誕を防ぐことができない以上、ルシファーを利用するほかなかった。コンスタンティンはルシファーのお気に入りであり、彼自らが死に際に迎えに来るほどの執着を見せていることから、神はコンスタンティンを利用することで、ルシファーをある程度コントロールすることができると考えたのではないか。

加えて、神は全知全能(Ominiscient and omnipotent)である。あまねく事象を観測し、時と空間を超越した存在であるはずの神が、マモンとガブリエルの思惑を看破することができない道理はない。つまり、神はマモンとガブリエルの再誕計画、そしてそれを防ごうとするコンスタンティン、息子の野望を打ち砕く父ルシファーという、「Constantine」の物語を認識した上で、コンスタンティンが地獄に落ちるその瞬間まで、観測者で居続けたのである。

観測者としての在り方は、現世に干渉しないという神の自身への制約という側面を持っているものの、寧ろ「悪癖」と称するのが相応しいと考える。コンスタンティンは、神を「無計画なクソガキ」と呼び、「神と悪魔が全人類の魂を取り合う賭けをしている」とまで言っている。そして、ラストシーンにおいて、神はコンスタンティンの右手を借りて、ルシファーに中指を立てているのである。まさしくクソガキの所業であり、およそ神聖なものの在り方には思えない。

つまり、本作においても、神は自らの決定によって、聖槍という鍵に宿った神の権威の利用を許しながらも、その悪癖とも言える観測者・傍観者面を最終局面まで貫いたわけである。本作では天使のハーフブリードであるガブリエルも、悪魔と同様嫉妬深く醜悪な精神性を持った存在として描かれている。製作陣は、この醜悪なガブリエルと同様に、神すらもASSHOLE!(クソッタレ!)な側面を持っているということを鮮烈なアクションと共に描きこんでいるのである。

 

(執筆:オカ研会長 胎鼓)